「不幸にする親」との対峙

不幸にする親 人生を奪われる子供 (講談社+α文庫)

不幸にする親 人生を奪われる子供 (講談社+α文庫)

 

わたしの親は、いわゆる「毒になる親」(以下、書籍名との混同を避けるため「問題のある親」という)である。 ここでいう「問題のある親」とは以下の書籍で明確に定義がされている。

なお「親は絶対大事にしなきゃいけない教」の信者の方は、丁重にお引き取り願おう。

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

 

一体どんな親が「問題のある親」というのかは、この本で読めばわかるがここでは端的に以下のように定義する。

1.精神的に虐待する

2.身体的に虐待する

3.前項の行為を、子供に対して、親が常習的にかつ強烈におこなっている

4.前項の結果、子供の精神に長期的でかつ重大な影響を及ぼす

であるから「ちょっと叩かれた」とか「極稀に言葉で叱責された」「嫌味を言われた」程度ではない(もちろん、親はそういう行動も慎むべきであり批判されるべきであるが)。

また前述の親の行為を、子供が成長したあと「あんなこともあったな」と「子供自身が」穏やかな気持で思い出せるような場合も、同じく本稿で扱う「問題のある親」とはみなさない。

さてこのようにされて育った子供はどうなるのであろうか。

まず自分の人生を「親に支配されている」ように強く感じるようになる。そしてそれは精神に強い影響を与え「うつ状態」などを発症しやすくなり、生活するのに苦しさを感じるようになる。

これらの状況を改善しようと試みているのが、スーザン・フォワード著「毒になる親」である。

この本では解決するための決定打として「親との対決」を上げている。

これはおそらく英語の著書を翻訳しているからだと思うが、なぜ「親との対決」必要かどうも意味が伝わりにくく、その理由がわかりやすく書かれていない。

いや、書かれているのだが後半に行くにつれ話が広がっていき、その点がわかりにくくなっているというのが正確なところであろう。

そこで冒頭に出た、ダン・ニューハース著「不幸にする親」を見たところ、ようやく全貌が理解できたので、そこから得た知見を元に「問題のある親」に今後のように対処すべきかについて、わたしの体験も含めまとめてみた。

このエントリーが「問題のある親」に現在も苦しめられている人の助けになれば幸いである。

自分が「虐待の被害者であることを確認する」

まずは現状の確認から始まる。虐待されていたことがあるなら「自分は問題の親からひどいことをされた」と認識すること。これまで親から育てられ世話を受けたことに対することはまずは置いておき、自分の悲惨な状況に目を向ける。

「最大に身近な人間である親」から虐待されるということは、一人の人間(つまり子供)の人生を台無しにすることと同義であるほどの卑劣な行為である。

親に対しての義憤や、自分に対しての憐れみを感じる。

自分は「問題のある親」からひどい目に合わせられたのであるから、それに対して怒りや苦々しさを感じるのは当然であるし、そうするべきである。

前項でも述べたが、ここでも「親から世話を受けた」こととは切り離して考える。親からの虐待はそれ自体とても悪いことであり、それが「親が自分にしてくれた世話」によって帳消しできないのである。

例えば「人を暴行してそれに重度の障害を負わせた場合」、加害者は被害者に「すいませんでした、あれは昔のことだから許して」と言って済む問題でないことと同じである。刑事では傷害罪に問われ刑務所にいかなければいけなし、民事においては損害賠償を支払わなければならない。

子供に対しての虐待は、それが身体的にであっても精神的であっても傷害罪の場合と同じである。親が子供の寝食の世話をしたからといって、それをもって許すことのできる問題では無いのだ。

それに「親が、子供の寝食の世話をする」ことは当然なのであり、それを恩に着せるのがおかしいのだ。また逆に「子供は親に恩を感じるべき」という意見にも、本件の場合はそれに当たらない。

「とにかく親は家族であり、もう済んだことなので許すべき」という意見もあろうが、それも危険である。なぜなら「虐待を受けた子供」の「感情」に、決着が付いていないからだ。

大人でも、ある人から何かされて「感情的に傷ついた、あるいは腹が立った」ということがあるだろう。その度合が大きければ大きいほど、それについての自分の感情は大きく波立つ。

そんなときに誰かが仲裁に入って「まあまあ、今回はこれぐらいにして…… 」と言ったとしよう。

それであなたはすぐに収まるだろうか? いや、収まらないだろう。なぜなら「人間の心」というのは、そう簡単には許すように作られていないからだ。たとえ無理やり「怒り」を抑えこんだとしても、それはわだかまりという形でくすぶり、いつまでも尾を引く。

つまり人から受けた「ひどい仕打ち」によって生じた複雑な感情は、そう簡単に収まらず、いつまでも対人関係の妨げになるということだ。

「あいつにこんなことされた」「あの人にこんなこと言われた」と苦々しくいつまでも怒りを感じている人は少なくない。これでは生活が楽しくはならない。

自分になにが起きているかわからない子供であれば尚更そうである。心に対しての影響は計り知れない。虐待を受けたことに対して何らかの感情を持っても、それにどう対処してよいかわからず、悶々と成長するのである。

だから「子供が虐待されて生じた複雑な感情」に対して、簡単に「許せ」ということは何一解決に寄与しない。それを充分咀嚼しなければ、先に進めないのだ。

ここでの落とし所は「問題のある親によってひどいことをされ、そのために自分はつらいのだ」と理解することだ。

この時点でいくらか心が楽になっているはずだ。自分の心がつらいのは「自分に原因がある」からではないことを認識したためだ。

「問題のある親」が原因で「自分の心に」大きな暗い影を押していることを認識し「自分を憐れ」もう。

「問題のある親のせいで、自分はひどい目にあった」と認識することによって、自分は休息が必要な状態であることに気づくだろう。

虐待され心身ともに疲れ果ててしまった自分を大いに労ってほしい。

そうすることによって、まずは自分の心の状態を安定させることに心を向けよう。

「子供として当然、親に気遣いを示さなければ……親とコミュニケーションを取らなくては…… 親の世話をしなければ…… 」という気持ちや、見方も出てくることもあろうが、今はその時ではない。

もし、どうしても親について考えてしまう人は「人間は心の問題を抱えながら、他の人のことも気遣えるよう器用にできてはいない」ことに注意を向けるべきだろう。親を気遣いたいと思うのであれば、まずは自分の状況をよいものとしなければならない。

だから、この時点では親への接点は極力少なくすべきである。

そうしないと次のステップに進むためのエネルギーが湧いてこない。

親と対峙する

「毒になる親」では、「親との対決」と表現されているところである。わたしは対決ではなくて「正面から向き合う『対峙』」が正確な表現であると考える。

なぜなら、親を打ち負かしたりやり込めたり、自分の怒りをぶつけるのがその目的ではないからだ。

ここでの目的は「あなた(親)がわたしにしたことはとても悪いことである」そして「自分の今の悪い状態は親の責任である」ということを、親に伝えることにある。

その方法については「毒になる親」に詳しいのでそちらを見ていただきたいが、わたしの体験からはスマートフォン等のSMSがよいように思えた。理由は後述する。

親との関係を見直す

「親との対峙」をすると、自分の心情に変化が生じる。ここが「毒になる親」に不足している情報なので、特に記す。

「親との対峙」をすることは、自分のつらい状況が「自分のせいではない」ということを「自分に言い聞かせる」効果がある。これは実際に「親と対峙」する行為を行わないとわからないので、ほかの人に伝えるのは実は難しい。わたしも「親と対峙」してから初めてその感情に気づいたぐらいである。

ちょっと脇道にそれるが、わたしの場合は親からのメールが携帯に来たときにそれをおこなった。本を読んでからいつ「親と対峙」すべきかタイミングを図っていたが、今がその時と考え、冷静に「自分の状況」と「このように自分が辛いのは、あなた(わたしの親)にある」ので「そのことをよく考えてもらいたい」旨メールで伝えた。

わたしの親は感情的であり、このメールに対する反応も未知数であったが、意外と冷静であった。ただ「あなたの言っていることがよくわからない、説明してくれ」との返信があったので「そんなことは自分で考えるよう」に伝えた。

実際わたしに起こっている悪い状況の原因は親にあるのであるから、それは親が考えるべき問題である。わたしが答えてもそれは「答え」にならない。繰り返しになるが「それは親の立場にある親が自分で考えるべき問題」である。

そのように一連のやり取りをしたところ、一時的であるがなにやら納得したようである。そのあと特に反応はなかった。親は親なりにわたしの反応について考えているようであった。

SMSで行われた「親との対峙」は、会話するよりも、文字を打つためにいくらか考えなければならないため、いくらか冷静になりやすそうなツールであると言える。

わたしとしては実に意外な「対峙」の結末であった。

さて話を元に戻そう。

「親と対峙」すると「自分のつらい状況」を「自分の心から分離」し「親に負ってもらう」ことになる。

「自分のつらい感情」は「親に移る」のである。

ここまで来ると「自分の親に対する感情」がかなり軽くなっていることに気づくだろう。

これまで数十年背負ってきた「重い気持ち」を別の人に移したからだ。

親は悪人であることを再認識する

ここまで来ても残酷な事実が残る。「親はあなたに対して虐待をおこなった極悪人である」という点である。

ただ、わたしとしてはこれを「自分(子供)の感情」を良い方向に向かわせるための鍵の一つと考えるようにしている。

「問題のある親」から虐待された子供は、おそらく「自分の親」に対して正常な見方をすることができない。ひどく恐れ怯えるか、逆に対抗心を燃やし過激に反抗するかだ。あるいは「あえて無視する」という態度に出ることもあろう。

しかしそのどれも「子供であった自分」に良い影響をもたらさない。結局のところ、恐れようが怯えようが反抗しようが無視しようが、いまだに「問題のある親」が「あなたの心に大きな影響をもたらしている」という事実を示しているにすぎないからだ。

だとしても、「問題のある親が自分を虐待していたこと」や「問題のある親の方に問題があることに気づくこと」そして「親と対峙した」ところまでに来ると「自分が親より大きく」なっていることに気づくはずだ。

子供を虐待する親など本当に「愚か」である。しかし子供であった自分は「その愚かな親」の行動からなんとか逃げ延び、今や一人の人間として生活している。

もしかしたら、いくらかでも親の心情を理解(許容しているという意味ではなく、そういう行動をとった理由について考えられる)できるようにまで、余裕が出てきたかもしれない。

そうなったらまさにあなたは親を精神的に超えたのだ。自信を持っていい。

だから、ここで「親はわたしに対して悪いことをおこなった犯罪者である」と考えて、自分の人生から切り捨てよう。

犯罪者はそれなりの報いを受けねばならない。この場合の報いは「子供の離反」である。

「親と対峙」したあなたは、もう親を必要としない「一個の人間」になった。子供が親から離れるのは「問題のある親」の責任であり「あなたに責任」はない。もしかして「老いた親の世話」という問題にもぶつかるかもしれない。あるいは「子供が親から離れるなんて」という世間の目が気になるかもしれない。

しかし「老いた親の世話」はそのときになったら考えればよい。世間の目は「問題のある親」という事実を知らないのだから、気にしなくてもよい。サクッと切ってしまおう。

最後に「問題のある親」は「頭に問題」があるので、親に「対峙」する子供の意図を理解できず、逆上したり、無視したり、暴力を振るったりすることもあるので、その点に注意が必要だ。

会社で立場が高くても、(学力的に)頭が良くても、仕事ができても、「子供を虐待する時点」で、その親の頭は「狂っていて愚か」なので、対峙したからといって親が変わるなどとは期待しない方がいい。これまで数十年「自分の行為とその考えがおかしい」と気づけなかった人なのだ。

だから「こいつ真性のアホだ」ぐらいに思う程度でちょうどいい。

どうだろうか。少しは気分が楽になっただろうか? もちろんそこまで到達するためには時間が必要であったり、いくらか努力も必要であるかもしれない。しかしその結果「自分の親に対する見方」にいくらかの改善が見られるようになるならば幸いである。